接する相手によって性格の違う複数の自分を「分人」を呼ぶ

前にブログで、こんな記事を書きました。

 

読んだ人から感想を貰えることの多かった記事で、同じことを思ってる人もいるんだなと、それが自分だけの悩みじゃなかったことに少しホッとしたりもしたました。

 

そうやって貰った感想の中でも、「この本を思い出した」と教えてもらったのが、小説家・平野啓一郎さんによる『私とは何か』という本でした。

小説家として著名な方のようですが、僕はまだ平野さんの作品を読んだことがありませんでした。

 

それでも、Amazonで本の紹介を読んでいると、まさに前に書いた記事で自分が思っていたこと、そのものに触れるような内容だったので興味を持って購入。

読みやすい長さにまとまっていて、難しい言葉もできるだけ排除して書いたとご本人が言う通り、内容もとても理解しやすいものでした。

 

「分人」という言葉がメインのキーワードになっているこの本。

その単語が意味するのは、人と接するときの自分の性格やら言葉遣いなんかをひっくるめた人としての姿が、接する人によって変わることで、自分で自分に戸惑ってしまう。

 

ただ、人間は誰しも、その人と接するときの最も適した性格を、接する人それぞれに対して持っている訳で、それを本の中では「分人」と読んでいます。

自分の中にいくつもある分人に、自分でも戸惑うけど、そんなのは複数あるのが普通だっていう話。

 

この本を読むまでは「本当の自分」って何なんだろう、どの人と接してるときのそれなんだろうって、この本にも登場する内容でわかりやすく困惑していました。

けど、平野さんよれば「本当の自分」なんてものはなくて、誰でも複数の分人を持っているもの。

その分人のうち、最も多く現れる分人がその人の「個性」なんかを占めるんだって、そういう話でした。

 

年上の人と接するときは、きっと他の人より過剰に、失礼がないようにってことを考えているからぎこちないし、距離が詰まる気も一生しない。

可愛い女の子と接するときなんかも、自分を良く見せようとか、少しでも格好良くいれたら、みたいな感覚で接する。

でも僕にわかりやすい魅力ってものはないので、結果的に当たり障りのない、空気のような存在になって印象なんかそんなに残せないままだたったりする。

 

分人の話とは少し逸れるけど、人と距離を詰めるのに、相手をいじるってことができるのはかなり大きいと思うんですよね。

それができて初めて、相手の懐にグッと入れて、バッと距離を縮められるきっかけになるというか。

そういうのが、年上の相手になら失礼のないように、ちょっと気になる女の子には格好良くいたいから、みたいな考えからできないでいるから詰められない。

 

それはさておき本の内容に戻ると、僕が学生の頃に感じてた「授業参観に両親が来たときの気まずさ」

学校でのはしゃいでる分人を持つ自分と、家での大人しい分人の自分、そのどっちで振る舞えばいいのかが分からなくなるから居心地が悪い。

 

本の中でも、筆者の平野さんが高校時代の友達と大学時代の友達が同時に居合わせる場所で居心地が悪かったと書かれていました。

そして、それに関しても両者に対しての自分の分人がそれぞれ異なっていることが原因だと書かれていて、とても腑に落ちました。

 

確かに自分には分人があるけど、時々それが全くないような人もいて、そういう人は見ていて何だか羨ましくも思えます。

誰に対しても変わらない態度で、つまり裏表がない。

 

来る者拒まず、去る者追わずみたいなスタンスだから、誰からでも好かれているような。

そういう人にも分人はあるのかもしれないけど、その数はかなり少ないとして、生きやすそうで羨ましい、みたいな。

 

僕の場合は、本当に気の合う友達と一緒にいるときは、喉が渇いて仕方ないくらい喋るし、とにかく話題が尽きないなと思う。

もし話題が尽きたとしたら無理に喋る必要もなく、お互い無言でも相手のことを気にせず、同じ空間を共有できたりする。

 

一方で、例えば年上の人と一緒にいるときの分人なんかでは、失礼のないようにやら、緊張やらで、気の合う友達といるときの自分がまるで別人かのように口数が少ない。

無言の瞬間が続くと、相手に退屈をさせてないかなんて思ってとにかく落ち着かない。しょうもない話題を振ってその空白を埋めようとしたりもする。

 

気の合う友達と一緒にいるときの自分で、年上の人とも接することができたら、もっと仲良くなれるのにとか思って、歯痒い気持ちにもなります。

そこを突破するのって、さっき例えを出したように相手をいじるのもひとつの手だったりすると思うのですが、いかんせん失礼があっちゃいけないって気持ちが強いからそれができない。

 

そんな部分で、本当はもっと仲良くなりたいのになとか悩むこともあるのですが、自分の性格を「分人」って考え方で捉えると、どうも仕方ないのかなって思ったりもします。

かなり歯痒いですが。

それとも、もしかしたらそこは分人とはまた違った問題の話な気がしなくもないけども。

 

いずれにせよ、『私とは何か』を読んで、自分の素に近い姿って本当はどれなんだろう?とか。

接する相手によって器用に、まるで仮面を被り分けているかのような奇妙さに不思議な気持ちを抱いていたものの、この本を読んだことでひとつの答えを知ることができたことはとても大きいです。

 

なるほど、こういう考え方もあるのか、なんて思えただけでも、ちょっとは生きやすくなった気がします。

色んな人と付き合うための、無意識の処世術みたいなものなのかな、って感覚があるだけ、少しだけ楽になりました。

 

自分って一体なんだろうな、誰なんだろう、って。そんなことを悩んだことがあるなら、読んでみて損はない一冊です。

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いわはし

いわはし

もうすぐ30歳になるので、うかうかしていられません。

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