しつこいくらいにその名前を出しますが、ぼくは「ザ・トゥルー・コスト」という映画を見てから洋服に対する考え方がまるで変わってしまいました。
Instagramを開けばフォローしている服屋さんの情報がたくさん入ってくる。
その事実に変わりはありませんが、映画を見てからはそれらの洋服に対して、前ほどの「欲しい」という思いがほとんどなくなってしまったんです。
それはぼくが、ある重大な事実に気付いたからなのだと思っています。
服を買っても幸せにはなれない
ただ洋服を買うだけじゃ幸せにはなれない。
ザ・トゥルー・コストを見て、ぼくはそんな事実に気付いてハッとしました。
時間があれば服屋さんへ行き、あれでもない、これでもないと服を探す。
何か気に入ったものがあれば買って、それをブログで紹介する。
ぼくは仮にも「ブロガー」というものを仕事にしながら生計を立てています。
東京に引っ越してきてからは周りに服屋さんがたくさんあるので、色々な場所へ買い物に行ける。
今だから言えますが、柏に住んでいた頃は正直、仮にも「ファッションブロガー」なのにネタがなくて、どうすればいいのか分からず途方に暮れていました。
昼間から銭湯に行ってみたり、お酒を飲んで時間を潰してみたり、急にギターやベースの「弾いてみた動画」にこだわるようになったり。
それは本当に苦しくて、地獄のような日々でした。
そこから抜け出して、たくさんある東京の服屋さんへ足を運ぶようになって、ようやく「ぼくの仕事は、好きなことはこれだったんだ」と思った矢先のこと。
あの映画を見てから、ぼくが洋服を買う意味を見失いました。
正確に言えば気付いてしまったんです、ただ洋服を買うだけじゃ、このままじゃ永遠に幸せになんてなれないことに。
「幸せになる」と表現するのは大袈裟かもしれませんが、このままでは永遠に服を消費し続けて、そんな負のスパイラルから抜け出すことはできそうにない。
振り返ってみると、ぼくにとって洋服という存在は「自分に自信を持つきっかけを与えてくれるもの」でした。
いわば自信を持つための手段が、好きな洋服を着るという行為だったんです。
それがいつの間にか洋服を買うことで、新しい服を手に入れることで自分に自信を持てるようになるものだと勘違いするようになっていたのかもしれません。
よくある、手段が目的になってしまったパターン。
ぼくは洋服を好きになった大学生の頃から、その勘違いを今の今まで続けてきたように思います。
自信という文字は、自分を信じると書きます。
洋服はその力を自分に与えてくれる、確かなきっかけのひとつ。
いつからかぼくは手段を目的だと勘違いし続けているから、どれだけ洋服を買っても永遠に満たされない。
増え続けていく洋服と、買ったのにすぐに飽きてしまう洋服と。
負のスパイラルに陥っていることに気付いてからは、そこから抜け出さないと永遠に洋服を消費していくだけの虚しい人生になる、と思いました。
お笑い芸人をやるのは「人間不信だから」
何度も繰り返しますが、洋服が自分を信じるための力を与えてくれることは確かな事実です。
具体的な例を挙げるなら、お気に入りの洋服を着ている日のことを。
きっと、いつもよりも少しだけ勇気がみなぎってくる感覚ってあると思います。
そんなときなら、好きな子をデートに誘ったりもできてしまうかもしれない。
洋服が与えてくれる勇気ってそういうもので、その一歩を踏み出すための「きっかけ」なら確かに作ってくれる。
今の目的と手段を勘違いしているぼくが洋服に対して抱いているのは、「着ていればいつかはそんな自分になれる」という幻想や思い込み。
必要なのは一歩を踏み出すという行動そのものであって、洋服はきっかけを作ってくれても直接的に自分を変えてくれません。
あくまで「頑張れよ」と背中を押してくれる存在。
そこに今のぼくは、あまりにも頼り過ぎてしまっていると気付いたんです。
だからこんなにも狂ったようにたくさん洋服を買う。
ブランド古着でも何でも、安くても、その場で「いいな」と思ったものは買う。
後になって「これはあまり着なかった」なんて洋服があるのも、もはや消費をすること自体が、買い物をすること自体が目的になっているからだと思うんです。
思い返してみれば、洋服ってそんなに数多くは必要のないもの。
本来の機能としては裸を隠すためのものであり、体温を適切に保つためのもの。
ファストファッションの登場は、今の過剰な洋服の生産状況は、そんな洋服が持つ本来の存在意義をすっ飛ばしてデザインに走り過ぎてしまった。
今まで「たまに買うもの」だった洋服が、いつしか「消耗品」になってしまった。
買い替えのサイクルをあまりにも早くし過ぎてしまったんです。
巧みな広告によって、「この服を着れば女の子に好かれる、モテる」といったような、人が本来持っている欲望を過剰に煽る形を取っている。
どれだけ服を買っても満たされないのは、そんな欲にまみれて本質を見失ってしまっているからだとぼくは思うんです。
まだ途中までしか読んでいないのですが、お笑いコンビ「オードリー」の若林さんによる本「社会人大学 人見知り学部 卒業見込み」に印象的な一説がありました。
若林さんが「どうしてお笑い芸人をやっているんだろう」と知り合いに相談したところ、「人間不信だからだよ」と即答されたというのです。
自分のやったことで人に笑って欲しいのは、自分のことを誰かに認めて欲しいから。
人に認めてもらうことで自分を許せるというか、信じられるというか、初めてそう思えるようになるからなのではないか、とぼくは読んで思いました。
レベルは違えど、ぼくにも同じようなことを感じる節は前々からあったんです。
ぼくがこうしてブログを書いていたり、YouTubeをやっていたりするのは、どこかで「有名になりたい」と思っている気持ちが絶対にあるから。
じゃあどうして有名になりたいのか、理由をずっと考えてみたんです。
そうすると、有名になりたいのは、自分のやっていることが正しいと証明したいから。
自分に自信がないから、多くの人からの支持を得ることで初めて自分のことを肯定できる、と思っているのでした。
ぼくたちに過剰な数の洋服は必要ない
何の本で読んだのかは忘れてしまいましたが、とても印象に残っている一節があります。
「ありのままの自分を受け入れて、「自分は今のままでいいんだ」と思えることで初めて幸せになれる」ということ。
「嫌われる勇気」だった気がします。
大ヒットした、あの本の一節だった気がしています。
最低限必要なだけの洋服を、ぼくは既に手元に持っている。
それも自分がお気に入りのものを、たくさん持っている。
それなのにまだ新しく色々と手に取ろうとしているのは、ぼくが「自分は今のままでいい」と思えていないことの証拠です。
このままじゃ永遠に消費を繰り返し、既に足元で輝いているはずの幸せには気付くことができないまま。
発信して人気を得て、人から認められて初めて自分を許してあげるのは遠回りだし、それでも上を求めて永遠に満たされることはないのかもしれない。
まさに今、このままの自分を受け入れて認めてあげれば、その瞬間から苦しむ理由もなくなるんだ、と感じました。
「嫌われる勇気」を読んだのは何年か前ですが、当時はその言葉の意味を到底理解できなくて。
それでも今、パッとその一節が浮かんだのは、「本当にその通りだったのかもな」とぼくが思えたからなのでしょう。
それならもう、過剰なまでに洋服を買う必要はないし、今持っている数よりもずっと少なくたっていいはずで。
一度、本当に好きな洋服や必要な数以外のそれらを少しずつ、手放してみようと思います。
終わりのない欲にまみれている自分を苦しみから解放するような感覚で。
本来のぼくたちに、過剰な数の洋服は必要ない。
映画「ザ・トゥルー・コスト」を是非、見に来てください
ファッションに対して、服に対して、改めて考える機会を与えてくれる映画「ザ・トゥルー・コスト」
4月28日にその上映会と東京都内で行います。
正直なところ、これをぼくが開催したところで金銭的な利益は一切ありません。
何なら会場が満員になる30人がいらっしゃっても、そこでようやく掛かった費用とプラスマイナスゼロになるだけです。
そんな労力をかけてまで、どうしてそんなことをするかと言えば、ただこの映画を見て欲しいから。
そして今一度、自分が洋服を着る意味や理由を考えてみて欲しいから、それだけなんです。
とても素晴らしい映画なのに、一般の映画館ではもう上映していない。
DVDを買うなら割高なので、それなら上映会を開こうと思いました。
4月28日、皆さんのご来場をお待ちしております。
必ず、ファッションに対する考え方が変わる素晴らしい映画です。
いわはし
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